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執筆者の写真Chicago Samurai

「ボクの中にある、ゆずれない美徳感: Unnegotiable Aesthetic In Me」~タツ青木氏(ベーシスト・アーティスト)インタビュー



「タツ青木」と聞いて思い浮かぶ像は、人によって全く違う。映像作家、ジャズベーシスト、大学の先生、三味線のお師匠さん、太鼓道場長、アジアン・アートNPO代表、シカゴ・アジアン・アメリカン・ジャズフェスティバルの発起人、ディレクター、演出家・・・と実に幅広い。が、どんなに多くの顔を持とうとも、「タツ青木の根っこ」はひとつ。その根っこを確かめたい一心で、アジアン・ジャズ・フェスティバル公演や年末恒例の「太鼓レガシー」のリハーサルなど、超多忙を極めるタツさんを、年末のとある日に稽古場に訪ねた。



Ⅰ.Roots~ “タツ青木”を作り上げたもの



 青木達幸(タツ)氏は、東京四谷荒木町の置屋『豊秋』の長男として生まれた。置屋とは、芸妓(げいぎ)さんたちに芸事のイロハを教える、いわば養成所のような場所。華やかさの陰で日々積まれる厳しい芸の修練を幼いころから間近に見て育ったタツさんにとって、伝統芸能はdiscipline(修行)そのものだった。血のにじむような努力の末に一つの空間に放たれた全てのサウンド―三味の音、客の笑い声や手拍子、着物が床を擦る音、盃の音などの「お座敷の音」こそが、彼の“ルーツミュージック”となった。


芸妓時代の母

70年代のアングラアートに心酔

 青木少年の転機は、高校時代。時まさに安保闘争時代、反社会的なムーブメントの中で結成された太鼓演劇集団「銀天界」に飛び込んだ。入団条件は、東京出身者であること、何でもいいから何か特別な“一芸”を持っていること。特に、日本人としての作法には厳しかった。


「当時のボクは学校の成績も良くなくて目立たない存在でした。「銀天界」は、そんなボクが身に着けてきたことを認めてくれた場所。志を同じくする仲間が自分の居場所を求めて集う、“運命共同体”みたいなところでしたね」


  「銀天界」時代。16~17歳の頃



 御囃子(おはやし)安二郎先生のもとで太鼓アートとアングラアートを学んだ。寺山修司、武満徹、勅使河原宏、安部公房など、アングラアートの第一人者たちが出入りするユニークな世界で大いに刺激を受けた青木少年は、やがてその想いを海外に向け始める。

「日本社会のうっとうしいしがらみから抜け出したいという想いだよね。劇団の先輩たちから、それならアメリカに行って来いと言われて。シカゴを選んだ理由は、アート・インスティチュート(シカゴ美術館付属のアート学校)で教えていたのが当時アメリカの実験映画界でも有名な人たちだったことと、興味を持っていたアバンギャルド・ジャズはシカゴがメッカだったこと。これは見て見なきゃ、と思ってね」


 シカゴに来てさっそく、実験映画を作りながらライブハウスでジャズベーシストとして演奏を開始。ちょうどその頃、シカゴ前衛ジャズの先駆的存在であるサックス奏者のフレッド・アンダーソンと運命の出逢い。彼のバンドのベーシストとして活動を共にし、アルバムを発表するなどますますアバンギャルド・ジャズの道にのめりこんでいった。



前衛ジャズの先駆者で“師匠”でもある、サックス奏者のフレッド・アンダーソンのバンド時代

自分の音楽をやりたい

「とにかく最初の10年くらいは、生活も音楽も日本のことは一切考えずアメリカナイズすることだけを考えてやってたの。でも大学院を修了する27歳ぐらいの頃、自分の音楽もやってみたいという思いが強くなってきた。そのとき真っ先に浮かんだのは、あの「銀天界」であり、 “お座敷の音”。自分の音楽は太鼓や三味線がないと絶対に作れない、と思った。面白いことに、ちょうどそのころシカゴでアバンギャルド・ジャズをやっていたミュージシャンたちは、東洋のカルチャーに興味を持っていたから、日本の伝統的な音楽とジャズがうまいタイミングで出合ったんだよね」


 タツさんが目指す音楽は、お座敷音楽とジャズというふたつの「伝統音楽」の融合としてアメリカで芽吹いた。しかし、問題は太鼓を演奏できる人材の不足。

「太鼓っていうのはただ叩けばいいってもんじゃない。日本人の美徳感や感性がきちんと伝わらないといけない。それができる人は、当時シカゴにいなかった。だからわざわざ、昔の日本の音に近い演奏をしてくれるLAの日系人アーティスをト呼び寄せてレコーディングしていたんです。そのうち、シカゴで唯一日本人がやっていた『司太鼓』の存在を知り、彼らに教えて演奏を手伝ってもらうようになった。その後、この道場のマネージメントを僕が引き継ぐことになったんです」

 日本人の感性をきちんと伝える正統派の太鼓道場「新生・司太鼓」をスタートさせたタツさんは、これを機にジャズ、映画、日舞、太鼓、三味線などすべてをひっくるめたアジアン・アート集団のNPOを立ち上げる。「タツ青木の世界観の融合体」が、ここに誕生した。



Ⅱ.Ethic~「司太鼓」がめざすもの=タツ青木の生き様


「太鼓レガシー」舞台の演出風景

感性が伝わらない演奏は、やる意味がない

 「司太鼓」の団員は約80人。子供や主婦などが楽しみながら学ぶ「コミュニティー・クラス」」と、公共のステージなどで演奏する精鋭の「パフォーマンス・クラス」に分かれ、年間にこなす公演の数は60から70にも及ぶ。生徒は皆、タツさんの“太鼓道”に惹かれてやってくるという。

「ボクがやりたいのは、日本人の美徳感が伝わるもの。それは、三味線や唄や舞など日本の伝統の要素が全て入っている“演舞”。太鼓の動きは、日本舞踊なんです。たとえば、踊りや唄いには“ヌキ”“ヌケ”とよばれる間がある。だからこそ伝わるのであって、それがわからないと本当の日本の太鼓は教えられないんです。アメリカ人や若い人たちの間では“間”は“休め”と理解されてしまうけど、そうじゃない。むしろ叩かないところが大事。今流行のコンテンポラリーの太鼓は、とにかく打ちまくるパワードラミングが主流で、日本のグループも海外ではそれが受けるからといってやるでしょう?それでは日本人の感性は伝わらないし、ボクの目指すものとは全く違う。たとえば『鼓童』のような太鼓をやりたいという人は、うちの目指すオールドファッションの太鼓には合わないんですよ」



「踊り心、唄心がわからなかったら、日本の太鼓は教えられないんです」

この日の稽古場で、タツさんは太鼓を教えながら常に唄い、全身で舞っていた。




稽古では、大太鼓だけでなく、締太鼓も三味線のお囃子に合わせて練習する。

「お囃子をわかってやる太鼓と知らなくてやる太鼓は、月とすっぽんなんですよ」





ポピュラーになることへの懸念

 「伝統芸能」というものは、とかく見ている側には理解しにくいものだ。タツさんの言う“日本人の感性が伝わる太鼓”とそうじゃない太鼓の違いを、観客は理解できているのだろうか?

「わかってないでしょうね。ラーメン屋だって、みんなが行くお店だったらいいお店だと思っちゃうでしょ?だからこちらはポリシーで勝負するしかないの。それに、ポピュラーになることがいいことかどうか、という懸念を持たないといけないよね。ポピュラーになってしまった太鼓は音楽性がどんどん薄れてきて、音楽じゃなくなっている。みんなが喜んでくれればいい、という考えは伝統アートの世界では成立しない。だからボクは、自分の太鼓がポピュラーになることも考えていないし、ポピュラーにしようとも、ポピュラーなものをしようとも思ってないの。それに、ポピュラーになってお金が入るという目的と、伝統アートを伝承することは絶対両立しない。ある時点でどちらかを選ばなければいけない」


 自分が信じる美徳感を守るためタツさんが選んだのが、アート・オーガナイゼーションション(NPO)という形だった。芸術基金で成り立つためポピュラーを目指す必要はない。が、裏を返せば それは“果てしなき芸の道”の選択でもある。

「NPOで活動するからには、アーティストとしてのステイタスを守っていかないと勝負ができないし、それには、アートとしてお金をいただく価値のある、日本人的な感性が伝わる「コンテンツ」をお見せすることが大事。おかげさまで支援してくださっている方はそのことをちゃんと理解してくれていて、だからこそセレクトしてくださるんです」

 現代美術館やミレニアムパークなどの公共の会場で初めて太鼓の演奏をしたグループが「司太鼓」だった理由は、ここにある。舞台に下座、下り、という日本の伝統的な概念を持ち込んだり、太鼓の演奏に法被ではなく着物を着用したのも、「司太鼓」が最初だった。



「そもそも日本のお祭りには“品”があるんです。演奏も、着物の着方も、品位がなければいけません」



人生をかけられるのが、プロフェッショナル

 「プロフェッショナルなグループを作りたいとも思わない」とタツさんは言う。それでは、タツさんにとってプロフェッショナルとは?

「コアなビューティがわかっている人、プロとアマの違いが瞬時に判る人。見分けがつかなくて自分たちでもできると思っているのがアマチュアなの。それに、プロは人生を投げかけることができる。それで生計をたてているかどうかだと勘違いしている人が多いけれど、それは違う。シカゴのブルースマンは、ブルース人生を選んでいるから昼間に汗水流して働いている。だから、どんなに忙しくても疲れていてもクラブ演奏をやめないでしょ?アマはチョイスを持ってしまう。要は、人生を犠牲にできるかどうか。人生哲学の問題ですよ」


アートに見返りはない。


 人生を投げ出せないのは、その先に何があるのかが見えないから躊躇するのかも?

「アートとは、“You can only contribute. There is no return.” (捧げるのみ。見返りはない。) やったからお金が入る、人が来る、とかリターンがない世界。その中でプロは自分の美徳感を絶対に曲げないし、それに対してすごい“技”を持っている。技とはテクニックじゃなくて、“説得力”。太鼓も音楽も、技術は別のところにある。でも最近のものは何でも技術に置き換えられちゃう。太鼓が速く打てる、三味線が速弾きできる、とかね。コアな説得力が薄れてきている気がします」


やるべきか、やらざるべきか

 そうはいっても、見る人があっての芸能。あまり堅苦しくなってしまっても本末転倒になってしまう。そのあたりのさじ加減はどうコントロールしているのだろうか?

「自分の中でも常に葛藤はありますよ。マラソンの応援や企業のオープニングイベントなどに呼ばれて演奏しても、それは“アートのプレゼンテーション”とは違うし、アートを求められてもいない。それがうちの太鼓にとって本当にいいことなのかどうか、実のところボクにもわからないんです。お断りすることも多々あります。一方で、コミュニティーのお祭りに出るとメンバーの家族や多くの皆さんの目に触れるし、喜んでもらえる。それも大切。悩ましいところですし、ボク自身がアーティスト、団体のリーダーとして気をつけなければと思っています」



Ⅲ. Jazz~ アジアン・ジャズとMIYUMIプロジェクト

11月30日、シカゴの老舗ジャズクラブ「Jazz Shawcase」で行われたシカゴ・アジアン・アメリカン・ジャズフェスティバル 最終日公演では、同じくシカゴで長年活躍するブルースピアニスト・シンガーの野毛洋子さんの バンド「Yoko Noge and Jazz Me Blues」で息の合った共演。彼女とは30年来のつきあいだ。

 今年で20周年を迎えた「シカゴ・アジアン・アメリカン・ジャズフェスティバル」。非ヨーロッパ文化がマイノリティとされるアメリカで、自身のアイデンティティを失わずに表現活動を続けるアジア系のミュージシャンに焦点をあてた音楽祭だ。タツさんは、このフェスティバルの発起人であり、ご自身がリーダーを務めるアバンギャルド・ジャズバンド「MIYUMIプロジェクト」でも参加している。「アジアン・ジャズ」と聞くとアジア人がジャズを演奏するものと勘違いされがちだが、実はその逆。

「ボクらがやっているのは、日本のコンテンツにシカゴのアバンギャルドの要素を入れるという試み。つまり西洋の音楽と“融合”すること。西洋のコンテンツを日本の楽器でやるのはただの“迎合”。実際、ボクの演奏するベースラインはジャズではなく日本の感性でやっていて、その上にシカゴのジャズをのっけているんです。だから太鼓や和楽器が入れるの。一緒にやっているシカゴのミュージシャンにとっても、新しいものというよりむしろ、エスニックな感性を取り入れていたコアな60年代の世界に戻っているんじゃないかな。ボクも自分が育った70年代の日本の感性に戻っているかんじ」

 アメリカにおけるアジア人の音楽家、アーティストの地位は、昔も今も低い、とタツさんは言う。だからこそ、西洋受けに走るのではなく日本オリジナルの“旨味”を保ちながら、西洋の新しいものを受け入れていかねばいけないのだ、と。「銀天界」の反骨精神は健在だ。



西洋と東洋が融合したアバンギャルド・ジャズ「MIYUMIプロジェクト」。MIYUMIは次女の名前からつけられた。Photo by Kazu Yamamoto (右)



Ⅳ. Lore~伝承(つなぐ)


ハミッド・ドレイク(右)、長男のEigen(中央)、マイケル・ジラング(左)との競演。 フレッド・アンダーソン・バンドのドラマーだったハミッドは、タツさんとは30年来の知己だ。 (2014年の「太鼓レガシー」のステージより)

“新一世”とアイデンティティ

 奥様と長男、長女、次女の5人家族。3人のお子さんは皆、「司太鼓」の中心メンバーとしてステージに立つ。お幸せですね、と言うと「うちはチャイニーズレストランみたいなもんですから」と、たちまち“父の顔”がほころぶ。子供たちにとって「司太鼓」は、小さい頃から家族みんなでやっている“ファミリー・ビジネス”のようなもの、という意味なのだろう。

「小さい時はただ言われるままにやっていたみたいだけど、今は、ボクがこういうことを皆と一緒にやっているのはアイデンティティのためなんだという事がわかってきたんだと思う。ボクは、アメリカに来て家族を育てている日本人という意味で自分を『新一世』と呼んでいるけど、子供たちも自分のことをアメリカで生まれた日本人の『新二世』だと思っているみたい。息子は西洋的な要素をいっぱい持った太鼓家で、リズムは西洋的だけど日本的な感性の音を出す。一方、お姉ちゃんは純粋な日本の太鼓家で、注文もうるさいの。僕に近いかもしれないね。彼女は将来アートの世界で生きていくんじゃないかな」


 さすがに蛙の子。もう腹が決まっているんですね。

「ボクを見て育っているから、“風来坊”をしていることの恐怖感がないんですよ。父ちゃんもあんなわけの分からないことやって何とか生きていられるんだから、自分も生きていけると思っているみたい(笑) ボク自身、外国に一人で行くっていうとき食いぱぐれる恐怖感が不思議となかったからね。太鼓も三味線も、ベースだって弾けるし、何とか生きていけるだろうって」

 外国でもアイデンティティを実感できるように導き、手に“職”をつけさせ、なんとか生きていけるさという強さを与える・・・親が子に与えられる、最高のプレゼントではないだろうか。







元着物雑誌の編集者だった奥様の幸子(ゆきこ)さんとは、

彼女がシカゴに取材に訪れた時に知り合った。青木一家を束ねる最強の“ディレクター”。


「表現するのみ。あとは歴史が決めることだ」

 タツさんの内にあふれる、日本人としてのアイデンティティと譲れない美徳感は、これからどうやって引き継がれていくのだろう。

「うちの子供たちも、支援してくださっている人たちも、ボクがやっているスタイルをちゃんとわかってくれているから、もう一世代くらいは大丈夫でしょう。その先は僕も死んじゃうんで(笑) ボクは、芸術家として美徳感を信じて表現するのみ。それが本当に素晴らしいことか、社会に役立っていることかはどうかは、歴史が決めることなんじゃないかな」



■「柔よく剛を制す」―もの静かなたたずまいの奥に、底知れぬ凄味を放っている人。意外にも、ミュージシャンになりたいとは思っていなかったらしく、体格が許せばプロレスラーになりたかったのだとか。錚々たる受賞歴にも「あんまり興味がないんだけど、自分を紹介しやすくなった」とサラリ。2016年は、映画製作や「司太鼓」20周年など早くもスケジュールがいっぱいだ。「タツ青木の根っこ」は、“燃える闘魂”だった!




2015年11月21日 今年初の大雪の日に。「司太鼓」稽古場にて

取材協力/JASC(Japanese American Service Committee)



             文責/ 撮影(稽古場写真・太鼓レガシー):長野尚子



※この記事は2015年12月に”US新聞ドットコム”に掲載されたインタビュー記事です。



■タツ・青木(青木達幸)氏 略歴


東京四谷荒木町に生まれ、料亭「豊秋」の長男として幼少期より芸事に囲まれ育つ。70年代のアングラアート活動を経て1977年に渡米、79年よりシカゴ在住。現在は邦楽道場、アジア系NPOを運営するかたわら、和太鼓や三味線をフューチャーしたアジア系ジャズを定着させるなど、シカゴにおけるアジア系音楽の開拓者として高い評価を受け、邦楽からフリージャズ、映像作品まで幅広い芸術活動を続けている。これまで、ヨーロッパ、アメリカより80枚以上の音楽アルバムを発表、50本の映像作品を発表、参加作品も多数。アジア系ジャズのプロデューサーとして数々の作品も手がけ、1999年プロデュースの「アジアン・アメリカン・オーケストラ」(Anthony Brown's Asian American Orchestra)はグラミー賞にノミネートされた。2001年にはシカゴ・ジャズ協会、アメリカン・コンポーザー協会よりジャズ・ヘリテージ・アワードを受賞。シカゴ・トリビューン紙「2001年シカゴアンズ・オブ・ザ・イヤー」(Chicagoans of the year)に選ばれる。アジア系音楽の開拓者として2007年にはアジア・アメリカ協会よりマイルストーン賞を受賞。2010年には日米協会より「文化貢献賞」、3Artsより「芸術賞」などを受賞。シカゴ定住者会より2014年に「Living with Legacy」アワードを受賞。2015年には全米ジャズジャーナリスト協会より「シカゴ・ジャズヒーロー賞」を受賞。

●Webサイト:http://www.tatsuaoki.com/




● 『司太鼓』    www.taikolegacy.com

●「太鼓レガシー」 www.taikolegacy.com


「司太鼓」恒例の年末コンサート。今年で第12回目。和太鼓、日本舞踊、マルチリズムパーカッション、シカゴ・ジャズ、コンテンポラリーダンスなど様々な芸能文化の融合が生み出すダイナミックなパフォーマンスが人気を博している。


●「MIYUMI プロジェクト」 

タツ氏がリーダーを務める、シカゴのアバンギャルド・ジャズユニット。

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