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  • 執筆者の写真Chicago Samurai

<追悼>フジコ・ヘミングさん(”音は心で感じるもの” 2014年3月インタビュー記事)




3月28日、シカゴ日米協会の創立85周年記念イベント「“魂のピアニスト”フジコ・ヘミング・ピアノ・コンサート」がシャンバーグ市で開催された。彼女にとって5年ぶりとなるシカゴでのコンサート。会場にはこの日を待ちわびていた200人を超える観衆が詰めかけた。


第一部、フランス近衛隊風の衣装で颯爽と登場したフジコさんは、シューベルト、ラヴェル、ドビュッシー、ラフマニノフ、モーツァルトの中から親しみのある楽曲を披露。第二部は着物を素敵にアレンジした紫の衣装に着替え、ショパンの『ノクターン』、リストの『ため息』などのオハコをダイナミックに演奏、ラストは彼女の代名詞ともなっているリストの『ラ・カンネネラ』で締めくくった。観客のスタンディングオベーションに応え、アンコールはベートーベンの『皇帝』。鳴り止まぬ拍手の中、清々しい笑顔と共にステージを後にした。


1999年にNHKで放送された「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」は放映当時大きな反響を呼び、CD『奇蹟のカンパネラ』が日本のクラシック界では異例の大ヒットセールスを記録するなどたちまち“時の人”になったフジコさん。83歳の現在も積極的にコンサートをこなす。「日本ではもうスケジュールがいっぱいできついもいいとこ。だからアメリカに逃げてきたの」といたずらっぽく笑うフジコさんに、コンサートを前にしたある朝、お話をうかがった。



西郷さんのような母。ピンカートンさんのような父

フジコさんは、1932年12月ロシア系スゥエーデン人の建築家・画家の父、ヨスタ・ゲオルギー・ヘミングと、日本人ピアニストの大月投網子との間に生まれた。日本で生活を始めるも、フジコさんが5歳の時、父はスゥエーデンに帰国。以来、女手一つで二人の子供を育てた厳しい母、そして晩年までほとんど会う事のなかった父。フジコさんにとってふたりはどんな存在だったのだろう。

 

― 母は西郷隆盛みたいな人でした。純粋で男勝りで思ったことをズバズバ口に出してしまうような。お嫁にもらってくれる人は日本にはまずいないだろうから、「金をやるからド イツに行って向こうで見つけろ」って親戚に言われたそうです。これがまたとんでもない男にひっかかって。


 父は(『蝶々夫人』の)ピンカートンみたいな人。しばらくはこの女と結婚して日本で暮らしたら楽しいだろう、っていうくらいの気持ちで結婚した無責任男でした。母は外人と結婚した変わった女、ということでしょっちゅう秘密警察に付け回されていて、警察に呼び出されて泣きわめいていた記憶があります。父は女ったらしでうそつきでとんでもない奴だった。それでも、父だから。絵が上手くて、当時日本郵船で頼まれて書いたポスターを東京の近代美術館で見たときはすごく感激しました。私も少なからず彼の血を受けているんだろうなぁと思いますね。父とはずっとあとになってスウェーデンで再会しましたけれど、写真で見ていた若くて素敵な姿からはかけはなれていて、がっかりしました。再婚をして娘(フジコさんにとっては母違いの妹)もいますが、彼女は今スウェーデンで音楽学校の教授をしています。

 

 

フジコさんの趣味は絵画。彼女のCDジャケットの絵は全てご自分が描いた絵が使われている。

CD『フジコ・ヘミング ソロ』



DVD『FUZJKO HEMMING Á L'HÔTEL LAMBERT Paris』

 

 

男運は母親譲り?

― 私はこちらから誰かを好きになったってことがないの。でも寄ってくるのはろくな奴いないですよ。好きな人ができてもみなダメ男で、結婚の相手にならなかった。大恋愛したドイツ人の指揮者はすごい女たらしで悪いやつだったの。その人はゲイだったんだけど、そのあと好きになった人もゲイ。私ってよっぽどゲイに縁があるんだわね(笑) もうホモセクシャルはこりごりと思っていたけれど、今一番パリで一番親切にしてくれる人はゲイのカップルなんですよ。今思いを寄せている人?・・・・います。以前共演した人。なにかの会話のとき「私が死んだら・・」って言ったら、こうやってそっと(肩に)手をまわしてくれてね。そうやって始まったんです。でも、私なんかじゃ悪い気がします。迷惑かけちゃうんじゃないかしらと思って。3か月だけでも一緒に暮らしてみなさいよ、ってお友達に言われるんですけれどね。そのうち飽き飽きするからって。(笑)

 

5歳から母、投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人だったロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏にも師事。クロイツアー氏は、「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛した。


勉強嫌い、ピアノ嫌いな子供時代

― 小学校の頃は学校の勉強もピアノも全く嫌いでした。母は、私たちを食べさせるためにピアノを外に教えに行っていたので夜になるまで帰ってこないのね。だから私は学校から帰ると鞄放っぽり投げて近所のガキ大将と一緒に遊んでた。学校(青山学院)はクリスチャンの学校でいじめられたことは全然なかったけれど、学校から弟と歩いて帰る途中で子供たちに待ち伏せされて「異人!異人!」って石を投げられたこともありました。

 

ピアノ教育、古今東西

日本のピアノ教育は、とかく先生の言うとおり弾くことをよしとされますが、西洋の教育と比較していかがですか?

 

― とんでもない間違いですよ。私は母からピアノを習いましたが、ベートーベンやモーツァルト、シューベルト、ハイドンの初期の頃(の練習曲)はつまんないものばかりで全く愛情が起きなかった。それを押しつけられたものだからピアノを見るのもうんざりだったんです。でも母がいないとき、こっそりショパンの楽譜を持ってきて弾いてみたらものすごく感激して、なんでこんな素敵な曲を弾かせてくれないのかしらと思いました。

 その後、私のピアノを聞いたロシア人の先生が私に最初にくれた曲がドビュッシーの『アラベッスク』でした。それを聞いたとき、なんて美しい、私に合った曲かしらと感激しました。好きな作曲家は、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフですね。

 

 母はね、本当にバカみたいに厳しかった。私が弾いていると台所のほうから「音が揃ってない!」って怒鳴るんです。それって機械みたいに弾けってことでしょう?私のピアノは魂から湧き出るものだからそんな必要がないんです。絵だってそう。みんなが同じように塗りつぶしたらつまんない。ムラがあるからいい絵になるのよ。

 

子供の頃から外国に憧れ、パリに留学することを夢見ていたフジコさん。しかし、自分には国籍がないことがわかりいったんは道が閉ざされたが、駐日ドイツ大使が「難民」として特別に彼女のベルリン音楽大学留学を援助し、28歳で留学を果たす。

 

― 実は私は10歳くらいの頃から芸術の都パリに猛烈に憧れていました。本当はパリに行きたかったんだけれど、ドイツから奨学金をいただいたからドイツに行くしかなかった。ドイツではずいぶんいじめられて嫌な思いもしました。もちろん素晴らしい人もいっぱいいましたけれど。ドイツには昔はいいピアニストや指導者がたくさんいましたが、ユダヤ人が追い出されてしまってからはすっかりいなくなってしまいましたね。

 

奇跡のカンパネラ

フジコさんの代名詞と言えば、リストの『カンパネラ』。カンパネラを弾くときはどういう情景を思い浮かべていますか?

 

― イタリアかどっかの教会の鐘かもしれないですね。でもあまり意識しないですよ。大練習曲で最も難しい曲の一つで、音を飛ばさないように弾くのが難しいんですけれど、私は1回も音を飛ばしたことがないんです。目をつぶってでも弾けるの。みなさんは今曲の最後のところが好きって言ってくださいますが、私は中盤の柔らかいところが好きです。

 

フジコさんの半生をドラマ化した『フジ子・ヘミングの軌跡』(主演:菅野美穂)のなかで、若き日のフジコが酒場でJazzを演奏するシーンがありましたが、フジコさんはクラシック以外の音楽も弾きますか?

 

― 弾きますよ。昨晩も(シカゴの有名ブルースクラブ)“Buddy Guy’s Legends”にブルースを聞きに行きましたけれど、すごくよかった。ブルースみたいにちゃんとしたメロディーになっている音楽はすごく好きですね。

 

宗教観と生きとし生けるものを愛する心

過去のインタビューで「私の国籍は天国」とおっしゃっていましたが、フジコさんご自身の宗教観はどのようなものですか?

 

― 私はクリスチャンの洗礼を受けたクリスチャンです。母は仏教徒でしたが忙しくて子供を教育する暇がなかったから、私たちをクリスチャンの日曜学校に入れたんです。父は全くの無神論者。でも、どんな宗教かなんて関係ないですよ。その昔、若かりしチャップリンが老齢のラフマニノフと対談した時「あなたの信仰は何ですか?」と尋ねたら、「信仰なんてないよ。僕の芸術が神であり信仰だ」と答えたそうです。チャプリンは老いてからこのことを思い出して「あの時の自分が恥ずかしい」と言ったそうです。 

 今、世界で起こっているアラブ人によるテロの問題もおかしいですよ。戦前の日本でも皆「天に代わりて不義を撃つ」なんて平気で歌っていましたが、誰が不義なのよ、ってことですよ。神様に代わって人を殺せなんておかしい。どこの宗教にも人を殺せないなんて書いていません。

 東京の下北沢の自宅では、猫を50匹飼っています。ドイツでも犬と猫がいます。父方の曾おじいさんがスウェーデンで動物病院の院長をしていたそうです。その影響もあるのかもしれません。

 

35年間のベジタリアン。病気知らず。

― 毎朝起きたときに必ず体操をします。毎日4時間は練習するので、腕がパンパンになるの。それから私は肉も魚も食べないんです。35年間、主食は豆やジャガイモです。朝はコーヒーとトースト。夜まで何も食べません。オレンジジュースとリンゴジュースはたくさん飲みます。ドイツの音楽学校で15年間教師をやっていたときも、健康保険を一度も使ったことがないんですよ。日本でお医者に行ってもどこも悪くないって言われるんです。

 


 

<取材後記>

“フジコ・ブーム”の引き金になったNHKのドキュメンタリーを、当時私は自宅で見ていた。以来、フジコさんのピアノを生で聴きたい、という想いがずっと住み続けていた。このチャンスが約15年後にシカゴでかない、幸運にもインタビューをさせていただく機会にも恵まれた。自分自身、日本を離れ、さまざまな文化、人、音楽に触れてきたそのあとでやっとフジコさんの音と対峙できたことは、いろいろな意味でとても幸せだった。聴力を失った“悲劇”のピアニスト、激動の人生”などと、とかくドラマティックな生き様部分だけが日本のメディアに強調されてとりあげられてきた。彼女自身は何も変わっていないのに、大きな渦に巻き込まれたこの10年間、彼女の名声を利用しようとした人間に何度も会って傷つき、人間不信になったこともあったとか。しかし、ご本人は「これもすべてが運命だから」とさらりと受け止める。「人道的な援助のためならだまされるとわかっていてもやらざるを得ないから」彼女のピアノはどう批評するかではなく、どう感じるか。それは聴く側がどう生きてきたか、の証しでもある。


「音は心で感じるもの。私の一番の取柄は音色なの。出来がいいかどうかは私が一番よく知っている」

 

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